東ローマ帝国の成立とキリスト教の分裂
前回は、キリスト教が成立し、発生時はユダヤ教のような局地的な宗教だったキリスト教が、パウロのお陰でギリシア文化圏などの外国に伝わったところまで書いたと思う。
今回は、カトリックとギリシア正教(東方正教)にわかれた所の話を適当に書こう。
東ローマ帝国の成立
東ローマ帝国。ビザンツ帝国とも呼ばれるこの帝国の元となったのは、キリスト教がローマ帝国の国教となる礎となる決定を下したコンスタンティヌス帝(コンスタンティヌス1世)による東方への遷都である。
コンスタンティヌスの活躍した時代、ローマはその広大な領土を複数の支配者からによるテトラルキアと呼ばれる分割統治によって治めていた。 複数の皇帝からなるローマはうまいこといかず、戦国時代のごとく争いが度々発生。 そうした争いに勝利していき、コンスタンティヌス(と後に打ち負かすリキニウス)はローマの北の方ミラノで、ミラノ勅令と呼ばれるローマ帝国圏内での信教の自由を認めた。 ミラノ勅令が出された頃キリスト教はだいぶ広まっており、周辺国でキリスト教を国教とする国もあった。 それだけ勢力が強いので、ミラノ勅令によるキリスト教への弾圧のとりやめは統治上の問題からの決定とされる。 ミラノ勅令を一緒に出したリキニウスは、その後ミラノ勅令を破ってキリスト教を弾圧。 元々リキニウスにそんないい感情をもっていなかったコンスタンティヌスは、リキニウス勢と衝突していき、その内戦はどんどんひどくなっていった。 そして決戦となる戦いで、数で劣るコンスタンティヌスはお告げに従いラバルムと呼ばれるキリスト教のシンボル(アルファベットのPとXを重ねたもの)を旗に掲げてリキニウスと戦ったところ勝利。 かくしてコンスタンティヌスはローマ唯一の皇帝となる。
ローマ唯一の皇帝となったコンスタンティヌスは330年に首都をローマからビザンチンへ遷都。 コンスタンティノープルと名を変え、首都にすることを決定。 現在のトルコのイスタンブールのあたりで、とても賢い立地に首都を置いた。 この首都にキリスト教の聖遺物などを保管するなどした。
キリスト教の完全なる国教化
キリスト教をローマの完全なる国教としたのは東西に分裂する直前のローマ皇帝テオドシウスによるもの。 コンスタンティヌスによりキリスト教はますます広がったが、コンスタンティヌスはあくまで統治のために利用している点が強かった。 コンスタンティヌス以降は皇帝でも普通にキリスト教であった。 テオドシウスもそんな存在で、キリスト教意外の他宗教の活動にイラつくほどのキリスト狂だった。
そんなテオドシウスはミラノ勅令から70年ほど後の380年にキリスト教をローマの国教とした。 そしてその10年ほど後にキリスト教意外の異教信仰を禁止。 かくしてギリシア・ローマ文化圏に強固なキリスト教が成立。
キリスト教の分裂
テオドシウスの死により統一されていたローマは東西に分裂する。 かつての首都ローマと最近の首都コンスタンティノープル。 これに合わせて、東西それぞれの教会も首位を争うようになる。
500年もの時が進むにつれ、それぞれの主張が行動が摩擦を産み、 1000年頃には東西それぞれのキリスト教がお互いに破門しあい、完全に分裂する。 西はカトリック、東はギリシア正教となった。
この2つのキリスト教、今でも仲悪いそうだ。
おわりに
ロシア正教などの〇〇正教ってのはギリシア正教のから生まれた仲間。 正教会はカトリックみたいなピラミッド社会ではなく、それぞれの地域で自治・独立した組織運営なのが大きな違い。
さて、いいかげん茄子焼こうかな。